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古戦場めぐり「戊辰戦争・宇都宮城の戦い(栃木県宇都宮市)」

古戦場めぐり「戊辰戦争宇都宮城の戦い(栃木県宇都宮市)」

◎『戊辰戦争宇都宮城の戦い

宇都宮城の戦い」は戊辰戦争の戦闘の一つで、慶応4年(1868)4月、現在の宇都宮市にある宇都宮城で2度の攻城戦が行われました。宇都宮藩兵をはじめ、野州世直しを鎮圧するために武蔵板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地の日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦いです。この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失しました。

?『第一次宇都宮城攻防戦』

慶応4年(1868)4月19日未明、土方歳三率いる旧幕府方別動隊(約2000の兵)は、蓼沼村(上三川町蓼沼)の満福寺に陣を置き、1000余の新政府軍主戦力が配置される街道を避け、間道を通って宇都宮城を目指しました。午前4時頃、土方らは砂田村に到達、砂田を守備する彦根藩小隊を急襲しました。宇都宮城救援軍の彦根藩兵ではありましたが、先の小山の戦いで惨敗し隊長を失った記憶から士気も上がらず、やがて城内に撤退します。彦根藩兵を退かせた旧幕府軍は勢いに乗って、宇都宮藩主力が備える簗瀬の背後に進撃します。旧幕府軍の精兵がフランス式兵術をもって最新兵器を操るのに対し、宇都宮藩兵は武具も旧式の火器装備しか持たず、善戦はしましたがやがて宇都宮城内への撤退を余儀なくされました。旧幕府軍は難なく宇都宮城下に押し寄せ、土方らは道すがら庄屋など豪農の家に火を着けながら進軍し、折からの南東の風で火は宇都宮城下に広がりました。

昼になると、城下に放った火と共に、伝習隊第一大隊と回天隊は城北東側から、桑名藩兵と新撰組は城南東側から攻め寄せました。土方らは簗瀬橋を突破し寺町にも放火し、寺町・家中屋敷を焼いた旧幕府軍は、宇都宮城中河原門・下河原門に迫りますが、宇都宮藩軍事奉行の戸田三左衛門や藩老の中島董九郎らが率いる宇都宮城守備隊の火器により、数名の戦死者を出し簡単に近寄ることができません。回天隊も今小路門を攻めましたが、その戦いの中で隊長の相馬左金吾が宇都宮藩兵の放った銃弾に倒れました。下河原門付近では壮絶な攻防戦が続き、城南部の竹やぶを挟んで衝突し白兵戦となりました。旧幕府軍は三ノ丸藩士邸にも火をつけ、宇都宮城下の火は風にあおられて燃え広がり、二ノ丸御殿やその遥か北にある二荒山神社も被弾し、宇都宮城下の非戦闘員も流れ弾に当たって負傷するほどに銃弾が飛び交ったといわれます。

午後2時になっても、兵数・兵装ともに劣る新政府軍は、旧幕府軍宇都宮城から撤退させることができませんでした。宇都宮城北側の城下町を見下ろす二荒山神社は、間もなく旧幕府軍に占拠され、放火により黒煙に満ちたといわれます。東山道総督府参謀・有馬藤太は、目の前の小敵から宇都宮城を守りきっても、城の北西方面に迫りつつある大鳥本隊や会津藩兵・衝鋒隊の攻撃から、宇都宮城を守り切る余力を温存できず、新政府軍は宇都宮城を出て、一旦南方へ撤退することとなりました。最後に残った戸田三左衛門や県信輯など宇都宮藩幹部は、二ノ丸御殿に火を放ち、夕闇に紛れて城を離れ古河・館林に向かいました。一方の旧幕府軍も、夕刻となったため朝から長時間に亘った戦闘を収め、本陣を敷いている蓼沼方面に撤退して宿営しました。こうして「第一次宇都宮城攻城戦」は終結しました。その日、宇都宮城下の火炎は夜通し消えることはなかったといいます。城下は放火され、二荒山神社も本殿をはじめ殆どの社殿が全焼しました。二荒山神社の宝物は、社家により城外の平野神社に移されたため戦火からは逃れました。城内には、首の無い遺体や胴体から落ちた首級

が数個転がっていたといわれます。この際の宇都宮藩兵の戦死者は10人で、そのうちの1人は15歳の山本松三郎(山本有三の叔父)であったといいます。この日、旧幕府軍が下河原門に迫る際に、戦闘中の1人の旧幕府側兵士がその激しさに耐えられなくなり、敵前逃亡を図りました。これを見た隊長の土方は、この兵士を斬り捨て「退却するものは誰でもこうだ」と言い放ったといいます。こうした土方の振る舞いは、旧幕府軍兵士に指揮官への恐怖の念を抱かせ、後の箱館において味方から土方が撃たれる遠因となったともいわれます。

宇都宮城旧幕府軍側と交戦し、炎上しているとの報は鹿沼に進軍していた本隊の大鳥にももたらされました。戦闘翌日の20日、大鳥隊は本隊を宇都宮に向けて進軍させ、途中、新政府軍と接触すること無く、宇都宮城下に入りました。これに呼応して、土方ら別動隊も宇都宮城に向かいました。もぬけの殻となった宇都宮城に入城した旧幕府軍は、焼け残った米蔵から3000俵、本丸倉庫から金3万両を見付けたといいます。大鳥らは焼失を間逃れた修道館および三の丸の家老藩邸を本営とし、一方で城内に残された糧秣を焼け出された庶民にも分け与え、城下の庶民に乱暴な行いをしないよう兵士たちに触れを出しています。

?『第二次宇都宮城攻防戦』

安塚の戦いが起きた慶応4年(1868)4月22日午後、有馬藤太・大山弥助および野津七次が率いる東山道総督府救援軍(薩摩藩兵・長州藩兵・大垣藩兵)約250名が壬生城に入り、救援軍先遣隊の河田隊と共に、翌朝の宇都宮城奪還戦を決定しました。4月23日早暁、前日の旧幕府軍勢との戦闘で全約550名の手勢の3分の1から4分の1にあたる約100名の死傷者を出し、雨中の戦闘で疲労困憊していた河田隊を残し、有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍しました。一方の旧幕府軍も、前日の戦闘で多くの死傷者を出しながらも、早朝から壬生道の要所に歩兵小隊を配し、壬生道から攻め上がってくる新政府軍を要撃する準備を着々と整えていました。

午前9時、宇都宮滝谷(滝尾神社)に迫った新政府軍大山隊は、滝尾神社を守備する旧幕府軍に砲弾を浴びせ、これを退散させました。勢いに乗った新政府軍は、六道口および新町でも旧幕府軍を火器によって敗走させ、次々と宇都宮城の西側へと攻め寄せましたが、逆に西の丸に陣を敷いていた城守備隊の伝習隊の猛烈な反撃に遭い、滝尾神社付近まで押し戻されます。兵も約30名の死傷者を出し、大鳥は後方にも軍を廻し新政府軍を包囲し、後方の輜重隊から糧秣や弾薬を奪うと共に兵を撹乱しました。午後3時前、岩井の戦いに釘付けにされていた伊地知正治率いる新政府側救援軍は、岩井の戦いを収め結城から急行、城南側から宇都宮城に攻め寄せました。また、壬生城を後発した土佐藩兵も合流し激しい戦いとなりました。この戦闘で、松が峰門を守備していた土方歳三が、足に銃弾を受けて負傷し戦線を離脱します。また新政府軍の砲兵隊が、城西側の延命院および桂林寺に山砲を並べ、二荒山神社宇都宮城を砲撃、旧幕府軍は結局多くの犠牲を出し八幡山方面から日光山に向けて退却しました。

宇都宮城を奪還した伊地知・大山らは、宇都宮城内の修道館や家老屋敷を本営として宿営し、城は家老戸田三左衛門に引き渡されました。5月7日には、大津に抑留されていた藩主戸田忠友が帰還、5月19日には前藩主戸田忠恕も帰城し、宇都宮藩の政情は安定化しました。しかし、忠恕は急な病で9日後の28日に22歳の若さで急逝します。宇都宮藩は忠友の下で軍制改革が進み、歩兵隊は小隊11隊に再編され砲兵隊も設けられました。宇都宮城は、会津戦争や北関東政情安定化のための政治・軍事拠点となり、明治期には東京鎮台第四分営の本営が置かれることとなります。

○「宇都宮城跡」(宇都宮市本丸町)

平安時代に、藤原宗円が二荒山の南に居館を構えたのが初めといわれています。宇都宮は慶応4年(1868)4月には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失しました。この時、宇都宮城下戸数約3000戸のうち8割以上の約2000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられます。

○「六道辻古戦場」(宇都宮市六道町)

宇都宮六道郵便局近くにある「六道辻」は、宇都宮と壬生・栃木を結ぶ交通の要所で、戊辰戦争当時は木戸が設けられていました。宇都宮城旧幕府軍に占領された新政府軍は、城の西方から六道口に押し寄せました。旧幕府軍は、斎藤一が率いる新選組永倉新八率いる靖共隊100名が六道辻を守っていましたが、激戦の末に敗退しました。現在、この地には旧幕府軍戦死者の合葬墓があります。新政府軍の戦死者は近くにある報恩寺に葬られていましたが、旧幕府軍戦死者の遺体は賊軍の名のもとに放置されたままでした。しかし見かねた近隣の人が、この地に埋葬し墓碑を明治7年、旧宇都宮藩士戸田三男により建立しました。「戊辰之役戦死墓」として、次の説明があります。

?会津の飯寺で宇都宮藩兵の戸田三男隊に捕われた長岡藩の山本帯刀は、死を覚悟し、自らの愛刀と部下の持っていた軍用金を集め、戸田に渡し「これを貴藩に提供す、相当の費用に当てられんこと」と嘆願し従容として死に就いた。 戸田は帰藩後、有志の賛同を得て旧幕府軍戦死者の墓地を整理して建碑します(山本の愛刀は二荒山神社から護国神社に移管され、現存する)。碑文によると、『六道口において官軍(新政府軍)と幕府軍との間で大激戦があり、付近には多数の死体が散乱していた。官軍の戦死者は報恩寺に葬られて立派な墓碑が建立されたが、幕府軍は賊の名をもって呼ばれた。その幕府軍の戦死者は土地の人々により仮埋葬されたまま、供養もされずにいたが、明治7年宇都宮藩士戸田三男等各士族と付近の住民によって墓碑が建立された』とある。?

○「光琳寺」(宇都宮市西原1丁目4)

六道之辻左脇の道を直進し、最初の曲がり角を右折し突き当りを左折すると、寺の入口があります。ここには、東軍の桑名藩士の墓と、新政府軍の因幡藩士・山国隊士の墓があり、両者の墓が向かい合って建っているという珍しい光景が見られます。見学自由、見学料無料。

【戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓】

宇都宮の戦いで戦死した桑名藩士の墓で、境内入って左手前にあり解りやすいです。「笹田銀次郎、岩崎弥五郎、神山金次郎、不破弾蔵、岡□(不明)三郎、高見民蔵、小林權三郎 以上七名。」

【戊辰の役官軍因幡藩士・山国隊士の墓】

参道を入って、直ぐ右に鳥居があります。官修墓地となっており、宇都宮の戦いで戦死した因幡藩士と山国隊士の墓があります。

○「報恩寺」(宇都宮市西原1丁目3)

六道之辻の前の道を直進すると、左に報恩寺が見えてきます。ここには、宇都宮の戦いで戦死した新政府軍の墓が「官修墓地」として建てられているのと、白河などと同型の薩摩藩戦死者の墓が建てられています。茅葺屋根の山門は、創建当時のもので、本堂は戊辰戦争で焼失してしまったものの、山門は燃えずに残り現在もその姿を留めています。見学自由、見学料無料。

【戦死烈士之墓】

宇都宮の戦いで戦死した新政府軍隊士の墓。境内入って直ぐに建っているのでわかりやすいです。

薩摩藩戦死者之墓】

境内入って直ぐに官修墓地と向かい合って、白河や京都にあるのと同型の薩摩藩戦死者之墓が建っています。

○「一向寺」(宇都宮市西原2丁目1)

六道之辻前の道を直進、報恩寺前を右折すると一向寺の入口があります。見学自由、見学料無料。

戊辰戦争六道口戦死者慰霊碑】

本堂左墓域中程に、近年造られた六道口戦死者の慰霊碑があります。

【官修墓・倉田弥重墓】

墓域左奥、通りへの出口近くに、宇都宮藩士倉田弥重の墓があります。8月30日早朝、田島を出発した新政府軍は会津を目指し進軍します。沼山集落付近で旧幕府軍と交戦し、旧幕府軍は敗走しますが、宇都宮藩士の五番隊長・倉田弥重が狙撃され戦死、享年42歳。傍には倉田家の墓があるので、倉田家の菩提寺としてこの一向寺に墓が建立されたと思われます。

○「常念寺」(宇都宮市花房1丁目6)

常念寺に、彰義隊士之墓があります。明治27年、旧宇都宮城南館の地に池上町の貸座敷が移転してきた際、そこにあった墓石を同時に移したものだといます。この墓石は、戦闘直後に地元民によって仮埋葬された後に、明治7年に碑が建てられたものですが、碑銘には「彰義隊士之墓」となっていますが、宇都宮戦争時に彰義隊が参加していることが『復古記』等で読み取れないため、上野戦争が5月15日であるこから、4月に行われた宇都宮の闘いに参加できないため、上野彰義隊ではなく彰義隊が結成後に分裂して二分した際に、一部が大鳥軍に合流したものかもしれないとしています。境内自由、拝観料無料。

○「二荒山神社」(宇都宮市馬場通り1-1)

二荒山神社は、宇都宮城址奪還戦争時に新選組が布陣し、簗瀬村に放った火がついに二荒山神社まで焼ける事態となりました。この戦いの間、町民達はこの二荒山神社の高台で戦況を見守っていました。この戦いの直後、宇都宮城に入った大鳥は氏子鎮撫のため、独り二荒山神社の神域に留まった神職・中里千族を呼び出し、粮米百俵を寄進したといいます。

【簗瀬橋】

簗瀬橋は、土方等旧幕府軍新撰組宇都宮城攻略の際、ここから新政府軍を追撃、この橋を渡った辺りで激戦が行われました。この戦闘の際、自軍の兵で戦いに臆して逃げ出そうとした兵を、土方が斬った場所でもあります。