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女性美に胆泥した画家 ―― クラーナハの魅力と存在する位置

(完成文です)

先日、国立国際美術館で開催中のクラーナハ展を観た。

私にとってはもっとも魅力的な女性像を描く画家であり、待望の「日本で初めての本格的展覧会」に足を運んだ。見応えのある展覧会だった。

素晴らしいのはまず、女性の顔である。男性や子供やキューピッドの肖像等も充分優れたものだが、画家の思い入れ、その強さが違う。淫するという言葉がもっとも適切かもしれないほど、愛情が深いのだ。

その顔立ちは東欧らしいといえようか、東洋の血が入っているようなやや小さく細い目が印象的で、そこに親近感もわくが、会場には年齢は固より、清楚から、優しさ、毅然、妖艶等々、意外と様々な表情の女性像が並ぶ中、やはり白眉は「ホロフェルネスの首を持つユディト」と思う。

画家お気に入りの題材だったようで、会場には他にも2点同じテーマの作品があったが、代表作と言われるこれがやはりもっともよい。

一見清楚で凛とした表情のようだが、それにとどまらず何とも言えない色香や妖気を秘めている。

妖気を秘めているのは、胸下の台座に両手で、自ら断ち切った男の生首をもっているのだから当然でもあろうが、自分の色香に迷った男の命を獲るのは女の最上の喜びであり、愛情なのだと言わんばかりのいわば気高い顔にも見える。

男の顔も恨みではなく、呆けたような、見ようによっては本望ともいえる表情である。

思わず大島渚の映画「愛のコリーダ」を想起した。

彼の描く女性像の生命感や、とりわけその顔の素晴らしさは、表情が単純ではなく重層的であり、それをすべてひっくるめて胆泥しているところにあると言えよう。

 

 次に、これも女性の肌の色合と美しさ。

全般に彼の画面には色に対するこだわりがある。15〜6世紀の画家らしく、いわゆる固有色を中心に色数が多いとは言えないのだが、その一つ一つの発色を大事に実に神経をそそいで描いていることがわかる。

色調はドイツという寒い国らしいといえようか、鮮やかな赤と緑の補色を基本に、しかしそのうえで地味にも見える肌の色にもっとも神経を遣っている。

一見単純な肌色のようで、実に微妙なニュアンスを持つ。勿論色合いだけでなく、皮膚の下に血が通うようなやわらかで生き生きとした質感までとらえている。

女性の肌の美しさと言う点において、私が見てきた中では印象派ルノワールと双璧である。ルノワールは多彩な色彩を用いたが、クラーナハはシンプルに見えながらも豊かな表情を出している。

 三つ目にやはり女性像における独特の姿態が挙げられよう。

欧米人にしてはかなり細く、時に奇矯とも言える身体つきには彼の好みが繁栄しているのだろう。

例えば「ウ”ィーナス」は姿を造ったようなポーズと相まって、不思議なエロスを湛えていると思う。

新聞評だったか、クラーナハの描く女性像の持つやや幼い身体つきに浮世絵師鈴木春信を想起するとの文章があった。それも頷けるのだが、私は寧ろ、やや奇矯な身体つきと、大人の女性の醸し出すエロスから栄泉を思い浮かべた。

やや現実離れした姿態は当然クラーナハの好みであろうし、そのこだわりを追及しているのも魅力である。

以上三点において、クラーナハの余人に代えがたい魅力が秘められていると確信した。

要は彼の絵画は、そのすべてが女性美を探求し、表現したことに尽きるのだ。

彼にとって女性とは、美しさも醜さもすべて含めて愛すべき存在なのだろう。

それを包み隠さず――多くの宗教的題材を借りているとはいえ――趣味的なまでに露わに描いているのがクラーナハの魅力に尽きると言えよう。

余談だが、女性を描き続けた映画監督に溝口健二がいる。

彼も多層的に女性を描いたと思う。惚れ込んでもいただろうが、しかし観察する視点は冷ややかなほどで、極めて客観的である。

それに対して客観性を持ちながらも、それでもなお胆泥したのがクラーナハだと思う。

かつて作家の渋沢瀧彦や大江健三郎が我が国にクラーナハを積極的に紹介したというのもさもありなん。

そういう点においてこの展覧会は全く私の期待通りであった。

だがそれとともに残念なのは、肖像画(に限らないが)のようなシンプルな構図では彼の筆は生き生きと走り、構図や構成にも大きな破綻は見られないが、宗教画として登場人物(聖人やキューピッドなど神話的人物)やとりわけ背景が多く出て来ると、中心の人物以外が手抜きのように見える画も、すべてではないが結構見受けられた。

またデフォルメではなく明らかにデッサン狂いではないかという人物像も多々あった。面倒なのは、彼の場合、デフォルメとデッサン狂いが混在している。絵によってばらつきがみられることにある。

一例を挙げれば、今展のチラシ、ポスターを飾っている「正義の寓意」の女性の顔は厳しくかつ知的な表情が素晴らしいが、乳房は明らかに少女のように小さく、座高も短すぎる。大人の女性のプロポーションとしてはまるで無茶苦茶である。

これは彼のいわゆるロリータコンプレックス趣味のせいなのだろうか・・・その可能性もあろうが私はむしろ表現からの必然と思う。これは画面の中にもっとも重要な顔のサイズがあり、まずそれを決定し、次に彼のイメージする姿態を描くためには足を太ももまでは入れたかったのだろう。

そうすると必然的に乳房や座高を子供のように小さくするしかなかったのだ。そのように」して、ここにも1枚奇跡のように美しい女性像が誕生した。

絵画は表現であり、表現は説明ではない。彼がテーマを明快に打ち出すためには他の何かを犠牲にするのは作家としての誠実さなのである。(それにしても、優れた画であり、かつトリミングしたとはいえこの画をチラシに使ったのはすごい。先に挙げた・・・ユディトを、男の顔をトリミングして使用したなら、観客は2割増しだったのではないかな)

だが、顔は良いがその他の部分が手抜きと見られる絵もある。

先の・・・ユディトにしても、完成度の高い画であるが、彼女の衣服の部分は装飾的で平面的であり、実はその絵の中での表現としては、ずれがあるのだが、この絵ではその違和感も全体のバランスの中で納まっている。しかし、その他の小品では違和感のまま手抜きのように見えるものが数点のとどまらずあった。

要は非常にムラの多い画家と見えた。

趣味性が強い分、気分が乗らないと抜けてしまうこともあるのだろう。

会場にある説明文を読むと、クラーナハはとにかく手が早かったようである。

自ら描くだけでなく、工房を率い、しかも市長まで勤めたという。

なんでも器用にこなすことができる代わりに、時折手抜きも出てしまったのだろうか。

会場には多くのクラーナハの銅版画とならんで、同時代のデューラーのそれも三点陳列していたが、実に緻密で充実した描き込みと、モノクロとは思えぬ艶があるような質感は圧巻であった。

デューラーの作品を数多く見たわけではないが、恐らく手抜きのような絵はなくすべての作品がある高さを保って聳え立っているのではないかと思わざるを得ない。

また同じ会場で一昨年開催されたエル・グレコ展には今展のクラーナハよりも、画面サイズも大きく、かつ会場を埋め尽くす多くの作品が並んでいたが、厳しい画面構成の1点たりとも緩みのない作品群にはまさに巨匠の凄みがあった。

 彼等と比べるとクラーナハの作品は趣味性が強く、完成度のムラが多いのではないだろうか。クラーナハは魅力的な画家であり、優れた作品も多数残したが、惜しむらくはそこに溺れたきらいがあるのではないかと感じた。

 それに関してもう一つ記す。

会場の国立国際美術館はその建築から収蔵作品、企画まで優れた美術館であり、今展も画期的試みであったと思う。

しかし50数展の出品作の中で油彩画(テンペラ含む)の優品は10数点、せいぜい20点ほどではないだろうか。他の画家の作品(クラーナハと関連する)を合わせても、結構会場に空きスペースが目立った。

せめてあと10点ほど代表作を集めてほしかった。

例えば川田喜久治がクラーナハの油彩画(部分)を撮影したモノクロの写真が7〜8点あったが、素晴らしかった。川田の写真作品自体ももちろん良いのだが、もしも被写体の作品も展示されていたら・・・と思わずにはいられない。

そうすればさらにクラーナハの全貌を堪能できたであろうし、より彼の画業に対して決定的な評を下せたに違いない。

先ほど私が指摘したクラーナハのむらっけについても・・あくまで私の想像ですが・・工房の弟子たちの作品の可能性や、それに最後に1部だけ手を入れただけという作品もあるのかもしれないと思うのです。

(尚、この文章は、あくまで今展に基づいての評に過ぎないことをお断りします)

 西洋美術史を見渡すと、ダ・ビンチをはじめとして先ほど言及したデューラー、エル・グレコなど、数多いる眩いばかりの輝きを放つ巨星たちの連なりがある。

そしてその巨星群の傍らにぽつんと、一際怪しく独特の光を放つ魅惑の惑星、それこそがクラーナハではないだろうか。

たとえ大きな弱点を抱えていたとしても、彼の描いた女性像やその絵画がかがやきを失せることや、私の視座から消えることはない。